日々、思うことや心に浮かんだことをとりとめなく、書きなぐってあります。
仰げば尊し
仰げば尊し (2006.2) 憧れのミシン(2005.5) パジャマの悲しい思い出 (2005.5) 新婚時代に (2004.11) 一周忌 (2004.11)
はやいもので、上の子の小学校卒業が目前になってきました。
クラス委員のお母さんがたが集まって、ささやかなイベントや謝恩会の準備に日々忙しいです。
上の子の5・6年生の担任をもっていただいた先生のことは、おそらく忘れないでしょう。
50代の大ベテランの女性教師でしたが、非常にインパクトがありました。
思えば、進級した新学期はじめの懇談会で、
「私はパソコンもインターネットも出来ませんから、そおゆうことでいっさい文句をいってこないでください」
と、明言なさったときから、なんとなく違和感おぼえていたのですが(^_^;)。
びっくり仰天したのは、最初の個人懇談のとき。
私「・・・娘はクラスの皆さんとなじんで仲良くやっていけてるでしょうか?」
先生「そんなこと休み時間もずーっと見てるわけじゃないからわかりません」
・・・はあ?(゜o゜)
学級崩壊やいじめの心配な昨今、まさかこんな切返しをうけるとは思わず、まじまじと先生の顔に見入ってしまいました。
・・・気をとりなおして、
私「学校の勉強はついていけてますか?」
先生「さあ、なんにも言いませんからね。質問もせず黙ってるってことは、わかってるんじゃないですか?知りませんけど」
えええ?この態度はなに?\(゜ロ\)ココハドコ? (/ロ゜)/アタシハダアレ?
・・・私の動揺に頓着せず、先生は落ち着いておもむろに名簿?をとりあげ、
「1学期の理科が点数悪かったんですよ、49点?(名前の欄をみて)あれ、名前がちがう(T_T)。(名簿の表紙をみて)あら、これは1組の名簿やったわ(娘は2組)。(悪びれることなく)それからねえ、漢字ドリルと計算ドリルが提出期限過ぎてるのに出てません、(提出物のはいった箱の中を確認して)あれ?Aiちゃんのドリルがある(゜o゜)。・・・てことはやってないのにだしやったんかな・・・(ドリルをぱらぱらめくりながら)アラ、中身もやってるわ。誰とまちがえたんかな・・・」
・・・驚きのあまり、もうなにもいえなくなりました。すごいカルチャーショック(@_@;)。
こんな先生がいらっしゃるとは。しかし親の手前、通常ならいかにも「いい先生」らしくとりつくろいたくなるのが人情(^_^;)だと思うので、それをしないところはむしろ、『悪人』ではない証明かもしれない・・・とプラス思考に転じようとしたのですが、とりつくろう能力も欠いておられるんだろうかと思ってへこんだり(>_<)。
なんとも暗澹とした気持ちになりましたが、逆に4年生まで担任もっていただいた先生方が、いかに良い先生だったかしみじみと(いまさらですが)感謝したい気持ちになったり(^_^;)。
・・・父兄の委員会活動のお手伝いなどほそぼそとしていると、担任が毀誉褒貶はげしい先生であることをはじめ、いろんな風評を聞くことができました。
「ゆとり教育」で、学力面ではあまり(まったく)学校に期待できないこと。
私立に進学決める子が多いので、公立中学の生徒数が年々減っていること。
公立中学にゆく場合、学校の授業のみでは高校入試に対応できないので大部分の子が塾にいくこと。
公立の学校の先生は、殺人でもしないかぎり免職にならない(できない)ので、学校にクレームつけるより(しょっちゅう苦情はきているけど、あまり相手してもらえない)、心ある親は子どもを進学塾に通わせて私立の中高一貫校に入れること。
・・・先生に関することはもちろん、子どもや委員会のお母さんたちから伝わってきます。
通学路に不審者が出た。父兄が心配して担任の先生に報告したものの、先生は情報を子どもたちにつたえる(どこそこのエリアは注意するように、とか)事も無く、スルーした。
炎天下のグラウンドで運動会の練習中、熱中症で倒れた子がいた。
家庭から学校に「熱中症なので2、3日欠席します」と電話したところ担任の先生がでて、クレームとかんちがいしたらしく、
「あっ苦情なら校長先生に代わりますから待っててください」と話の途中で電話を遮った。
(お父さんが「あの担任の態度はなんだ」と激怒して、診断書をもって学校にどなりこんだらしい。
校長先生が平謝りしてなあなあになったが・・・以来、具合が悪くて早退した子の家に担任が見舞いの電話だけはしてくれるようになったとか(^_^;))
・・・ちなみに、運動会の練習ふくめ体育の授業は、体育担当の先生がなさいます。担任の先生は「見てるだけ」か、さもなきゃ「職員室にもどってお菓子を食べてる」そうで(子ども談)。
子どもが、「授業面白くない」とこぼす。特に、社会と道徳。先生が「教科書の何ページから何ページまで読んどきなさい」とおっしゃるだけで、ほとんどほっぽっとかれるので、皆勝手にガサガサしてるらしい(>_<)(*_*;。
いやー、公務員はいいですねー(^_^メ)。
もちろん、がんばってらっしゃる公務員や先生がたのほうが多数派だと思うので、申しわけないですが、これしかいえません
(*_*;。殊に、公立の学校というのは一種のサンクチュアリ、不可侵領域なわけで、これじゃあ学校で習ったことが社会で役にたたないわけだわ・・・とえらくあしざまにいってるようですが、普通の職場なら勤務評定も当然あると思うので。
進級して担任が変わりますように、という浅ましい親の願いもむなしく(笑)、6年生も同じ先生でした。
涙をのんで(爆)、娘を塾にいれました(*_*;。
今まで系統だった学習やハイレベルな課題に当たった経験がないため、つらいことも多かったようですが、勉強の面白さやとことん付き合って教えてくださる塾の先生の熱意に、大いに開眼したのは良い機会でした。
担任の先生はなにごとにも関心が無い(*_*;だけで・・・、もしわが子がいじめられたり、不当におとしめられるようなことがあれば何があろうと、毎日学校に怒鳴り込むところですが、さいわいそのてのトラブルはありませんでした。
なかよしのお友だちにも恵まれ、まずは楽しい小学校生活だったようです(^^)。
個人としては悪い人ではなさそうだし、私はなまけもの(爆)なのでファンになっていたかも・・・、ですが、やはりわが子の担任となると、非常に困ります。中学の前段階の、大事な高学年の時期、やる気のない先生のために『基礎学力』がつかないのは大損害ですよね(おまけに先生を見習って、なんでも舐めてかかる悪いクセが身につく(>_<))。
学校にお願いです。
しつけは家庭でいたします。
ほかのことはかまいませんから、基礎学力のみは身に付けられるように、宜しくご指導くださいm(__)m。
もうすぐあの先生ともお別れ・・・と思うと自然に頬がゆるんでくるのですが、
「そう思って油断してると、今度は弟くんの担任になるかも(^v^)」
と、委員会のお母さんたちにまぜっかえされてどっきり(@_@;)。
もしそうなったら・・・、心を鬼にして奴(下の子)を塾にぶちこまなきゃ仕方がないわ(^_^メ)。
念のため、上記のことはすべてノンフィクションです。風評にあたる部分も裏づけがとれています
(-_-;)。
憧れのミシン
・・・学校の通達をうけて、ミシンがけのお手伝いに家庭科室にゆくと、数人のお母さんがみえていました。
担任の先生がいきなり、
「・・・きょうはわからないことがあったらなんでもこのお母さんたちに教えてもらいなさい」
と宣告されたのには、少々ひるみました。
さらに、使用するミシンをみてびっくり。20年かそれ以上前の、なつかしいテーブルつき電動ミシンで、学校教材としても、とうの昔に製造中止になっているであろう機材でした。下糸もいまどきの水平がまにボビンをセットすればOK、でなく、ボビンをはめたボビンケースを内がまにはめる、なつかしいタイプ。これは今の子には扱いづらいだろうなと実感し、中学時代家庭科室で泣いた日を思い出し(笑)、小学校のもの持ちの良さに感心しました。
のっけから
「(下糸を)巻いて」
とボビンを差し出されたときは背中に冷たい汗が流れましたが(^_^;)、(たぶんやりかたはいっしょだろう)とはったり半分で糸をかけ、高速のレバーをあわせて滞りなく巻き終わったときは、ほっとしました。
・・・思ったとおり、ミシンをスタンバイさせるのに皆苦労していました。正しく作動して縫い始めれば、どうってことないのですが、糸がらみや縫い調子の悪さに四苦八苦という感じ。上糸をかけなおし、下糸をセットしなおし、糸調子を確かめるために端布で試し縫いをして、オッケー。糸がらみでお手上げになったときは、すべり板をはずして中につまっているほつれ糸を握りバサミとピンセットで用心しいしい除去したあと、さきの下準備をくりかえします。ミシン針が正しくとりつけられているかどうか、チェックするのも大切なポイント。・・・こどもたちの相談ぜめにあっているのか、「たのむからおばちゃんに聞かないでー」と、切実な悲鳴が聞こえるなか、無我夢中でやっていると、時間はとぶように過ぎ、その日はつつがなく終了しました。
・・・翌週、ふたたび通達がきて、今度は余裕?で登校すると・・・、今回は手伝いにきた(間抜けな)お母さんは私ひとりだけで、しまったと思いました(@_@;)。
(・・・まあ、こんな旧式なミシン、おとなでも使いにくいものね。子どもたち以上に困惑してたお母さんもいたみたいだし。きょうびミシンの無い家庭だって多いし。皆さんコリたにちがいない・・・)と、あれこれ思案しつつ、時間は待ってくれません。・・・とにかく、あまり役にたたない指導まがい(爆)を開始しました。
・・・まっすぐ縫うのはともかく、角を四角くきちっと縫うのはなかなかむずかしく、端と端を押さえてそのつど号令をかけました。
・・・力をいれすぎて、エプロンの真ん中が破れちゃった子が半泣きになっていました。昔の自分を見るような思いで(笑)、
「なんとかなるから大丈夫」
と慰め、ミシンのジグザグステッチで破れた穴をかがり、その上から補強布を縫いつけ、さらに大きなパッチポケットをつけてカモフラージュしました。・・・ご本人より私のほうがほっとしました(^_^;)。
・・・友達の世話(というかちょっかい?)ばかりやきすぎて、自分のエプロンが布の切りっぱなしのままぜんぜん仕上がっていない子がいました。
「・・・俺これ(エプロン)あと1時間で出来るかなあ」
と、さすがに不安そうにしているのを、
「四角く縫うだけだから、いけるよ」
と 励ましつつ、縫い代をしっかり折らせ、待ち針でとめ、縫ってる間、布端をぴんとひっぱりながら、角のカーブでストップ、ゴーと合図を送り、無事(?)完成させることができました。
「よかったあ(^^♪」
と喜んでもらえると、私もうれしくなりました。ほっ。
・・・どうにかこうにか、時間内にクラス全員のエプロンが完成しました。後片付けのあと、ほとぼりがさめて(笑)くつろぎながら、
「これ私たちが小中学校で使ったのと同じタイプのミシンですね、なつかしい」
と、担任の先生に話しかけると、
「・・・はい、相当古いもので、使い勝手が悪いんです。もうすぐ全部処分されて、新しいミシンが入りますよ」
・・・ごもっとも・・・と肯かされましたが・・・、なんだかなあ(@_@)。
私が子どものころ、実は我が家にミシンが・・・あるにはあったのです。
・・・ただ、せっかくのミシンなのに、使いこなせる人間が誰もいなかったというだけです(情けない(~_~;)・・・)。
忘れもしない、JUKIのがっしりした足踏みミシンでした。たぶん母が結婚するとき購入したか、結婚祝いにいただいたものではないかと思います。当時としては相当高価なものでしょう(昔のミシンは一家に1台、買えば一生ものでしたから、いわば高級品でした。現在は服は作るものではなく買うものだし、ミシンもぐんと手ごろな価格で、いろんなオプション付きの機種がつねにリニューアルされますね)。
・・・このミシンは埃をかぶって物置き台になっていました(@_@;)。嫁いだ先が悪かった(~_~;)、不遇なミシンです(^_^;)。・・・母がミシンを使用しているところは、ただのいちども見たことがありません。きっと使い方がわからなかったのでしょう。
・・・ずっと後年、大学生になってから、なんとか使えないかとこの母のミシンをひっぱりだしたことがあります。足踏みミシンは、なんといっても電力を消費しないのが魅力でした(^^♪。・・・ミシンまわりって、アイロンもあるしロックミシンも使うし、とにかく電源が必須ですから(^^)・・・。
・・・でもすぐに(爆)挫折しました(>_<)。なにしろ上糸のかけかたがあまりに複雑でわからない、説明書をみても古めかしくて煩雑でわけがわからない、長いこと放置されている間に細かいアタッチメントがいくつも紛失している・・・等々の事情がかさなり、あきらめました。
・・・そりゃミシンの取り扱いがむずかしいんじゃなくて、あんたが駄目すぎるのよ、とご指摘をうけそうですが、図星です(^_^;)、おはずかしいm(__)m。
・・・あの足踏みミシンが使いこなせれば、その後の私の人生ももうちょっと輝かしく(笑)変わったかも・・・、と今も思い出します(^^)。
・・・かつて、お母さんが縁側でミシンを踏み、縫い物に精をだすのは、どこでもみられるありふれた光景だったといいます。それが高度経済成長がすすんだ1970年代以降は「ミシンは使わない花嫁道具のワースト1」(「暮らしの手帖」)と揶揄されるようになり、さらに現在は収納や置き場所にあまり困らないポータブルタイプが主流になりました(私が今、使っているのもこのタイプ)。
それでも、いまやアンティークとみなされるようなレトロな足踏みミシンをみると
、その優美なデザインに心ときめきます(^^)。
パジャマの悲しい思い出
娘が小学5年生の3学期、小学校から通達がきました。
家庭科の授業で、ミシンでエプロンを製作中でした。
『子どもたちもがんばっていますが、はじめてのミシン実習でなかなか前にすすみません。余裕のあるお母さんはぜひ、ミシンのお手伝いにおこしください』
との主旨で、日ごろお世話になってるし、しゃあないなー・・・と重い腰をあげ、いくことにしました。
ミシンは、使いなれれば簡単にいろんな服や小物が作れる便利な道具ですが、下準備にあたる上糸のかけかたや上糸と下糸の強弱の調整が面倒で、たしかに小中学生には使いづらいかも(よほど器用な子は別として)・・・と遠い昔を偲びつつ(笑)、わが身を省みたり、しておりました。
中学3年のとき、家庭科で夏のパジャマを縫う課題がありました。
(本格的なシャツやワンピースほどではないにせよ、中学生としてはかなりハイレベルな課題だと、今にして思います)
苦手な製図をしてまがりなりにも型紙をおこし(もちろん原型なんて知らなかった(^^))、布を裁断して縫うだんになって、おもいきりゆきづまりました(^_^;)。
なにせ私は自分でもうんざりするほど不器用で(>_<)、ミシンの糸かけからしてうまく出来ませんでした。でも家庭でミシンが使えなかったので、学校のミシンを使用させてもらうほかなく、放課後しぶしぶ居残りしてやっていました。
上手く出来ないことを、完成するまでやりとげなければならないのは非常につらいものです(^_^;)。家でミシンを扱えるひと(正確には、洋裁の上手なお母さんがいて、手取り足取り教えてもらえる、あわよくばお母さんに縫ってもらえるひと(笑))がうらやましくて、指をくわえてみているよりほかありませんでした。
・・・それでも地獄の責め苦のような(爆)日々がすぎ、しょぼいながらもなんとかパジャマの上下らしきカタチができて、最後に上着のボタンホールをあけようとしたとき・・・、・・・たしか、ミシンのアタッチメントで縫うボタンホールではなく、のみでボタンホールの切り込みをいれたあと、ほつれないように周囲をかがるというオーソドックス(笑)なやりかたでした・・・、なかなかスムーズにかがれないのにじれて、布を平らに整えようと前身頃を両手でひっぱると・・・、
びりびりっといやな音がして、上着の前身頃にみるもむざんな裂け目ができてしまいました(>_<)。
・・・もう、どうしていいかわからず、文字通り涙目になりました。自分ではそんなに強くひっぱったつもりはなかったのですが。
・・・悲しい気持ちで家に帰り、黙っていられなくなって母にうちあけると・・・、
母は烈火のごとく怒り、さんざん罵倒したあげく、パジャマの上着の裂けた部分を手縫いでぐしゃぐしゃと乱暴に縫ってくれました(悲)(/_;)。
・・・母がそんな反応をしめすことはさすがに予想ずみ(爆)で、実際パジャマがオシャカになるよりそちらのほうが恐ろしかったのですが(^_^;)、感謝すべきなのでしょうが破れてしまったときと嘆きはさほど変わらず、途方にくれるばかりでした。母は怒りながら縫い、縫い終わったあとも罵りつづけていましたが、ほとんど耳に入りませんでした。
・・・シャツの身頃に穴があいてしまったときは・・・、
ごく簡単な方法だと
※アップリケする、標準的なものでも、また大小の小布を四角く切ったものを、身頃全体に軽やかなパッチワーク風に散らすようにステッチをかけるのも楽しい。
※破れた部分を含めて身頃全体の下半分を切り捨て、別布で切り替える。
サイズどおりに切り替えてもよいし、切り替え布の幅をたっぷりとってギャザーを寄せると華やかで楽しくなる。切り替えに使う布は、身頃と同じ布でも、配色の良い別布でも。
・・・裁縫を多少、かじった今ならこのくらいは思いつくのですが、当時の私にはまったく手立てがありませんでした。
(↑あ、でもミシンが使えないと駄目か、どっちにしろ(゜o゜)・・・)
・・・1学期の通信簿では家庭科にしっかり「2」がつきました。
われながら当然だと思いました(@_@;)。
・・・いま、自分も子を持つ親になり、あのときの母の心境もわかる気がします。
どんなにふがいなくても、わが子なんだから助けてやりたい、でも助けるノウハウがなにも無い、適切な救いの手をさしのべることが出来ない、となると・・・、むしょうに腹が立つものです(^_^;)。
・・・その後長い時間が経ち、結婚してから手作りの楽しさに開眼し、最新型のミシンを購入し、趣味と節約をかねてほそぼそと励むようになりました。
おくるみやベビー服、子どもの帽子、リュック等の袋物、子ども服・・・、お泊り保育や林間学校に持たせるパジャマも前日徹夜で縫い上げました。
・・・戦後まもない、なんでも手作りしなければものの無い時代、洋裁が大流行し、戦中戦後世代の女性には洋裁の得意な人が多かったようですね。
昭和を代表する作家の故・向田邦子氏もそのひとりで、実妹・向田和子さんの回想「向田邦子の青春」にも、邦子さんがすばらしい洋服を次々製作し、手作りのおしゃれを楽しんでいる様子がこと細かく載っています。
9才違いの妹、和子さんが中学生のとき、宿題のワンピースを失敗して穴をあけてしまい、邦子さんがアイディアで最初の服よりステキなできばえにしあげるくだりは、わが身とくらべて興ふかいです(^^)。
・・・姉は生地を手にして少し考えた後、バイアステープを取り出し、背中の穴の部分を隠しながら、セーラーカラーのようにバイアステープを付け、それを肩から前に持ってきて右、左両方の胸のところで止めた。そしてそのテープの先端に飾りとしてそれぞれ白いボタンをつけた。思いもしない発想だった。
ワンピースは、バイアステープのラインと胸のボタンがアクセントとなって、一層引き立った。私は、大喜びだった。
(『向田邦子の青春』向田和子・編著・文春文庫刊)
・・・この時代(昭和30年代前後)の女性たちにとって、自分や家族の服を縫うのは「教養」とかおおげさなことでなく、ご飯を作るのと同様、ごくありふれた日常の用事だったことがうかがえます。
・・・私の亡き母は、向田和子さんと同世代だったのですが(^_^;)。
新婚時代に
結婚してから12年、それなりにいろんなことがありました。
結婚した当初、大阪市内のアパート住まいしていました。繁華街の中心で、環境はあまり良いとはいえませんが、交通の便は非常によく、活気にみちた場所でした。皆さんそうではないかと思いますが、新婚時代はわけもわからず浮かれていました(笑)。今まで育った家庭(といっても父とひとりっ子の私のふたり家族でしたが)を卒業した、と思い込んだことで、えもいわれぬ開放感がありました。
・・・週末になると、狭い我が家に必ずお客さんがみえました。主人の友人や後輩、みんな若い人たち(あたりまえですが(^_^;))で、楽しかったのが今ではなつかしい思い出です。
「メシ食わしたるから来い!」が彼の殺し文句(笑)でした。このツルのひとこえ(^_^;)で、たいていのお客さんはいらっしゃいました。若い人というのは、つまり有り体にいうとピイピイしており(^_^;)、ゴハン食べられるというそれだけで魅力があったのでは・・・と推察しております(^◇^)。いろんな人がきて、わいわい談笑している雰囲気というのはとても楽しく、歩いてゆける近所に黒門市場(大阪では有名な「食」の卸し問屋街)があったこともあり、はりきって料理を作ったものです(ちなみに私の料理は母から手ほどきをうけたこともなく、全ていいかげんな自己流です(^^))。
・・・唯一、困ったことといえば、予算面です。彼も私も若くて(20代半ばでした)、いま現在よりさらに金銭的余裕がなく(^◇^)、したがってふたりきりの月曜日から金曜日までは、まことに質素な食卓でした(彼は「手抜きだ」と憤慨しておりましたが、まあそれもあったかも(^_^;))。なにしろ大阪市内は都心の物価高で、エンゲル係数はまことに高かったです(^^)。様々なお客が来られましたが、今も印象深いのは、彼が大学時代所属していたサークルの後輩の皆さんです。
・・・いわゆるバブルがはじけて、景気がかげりだした時代で、昨今漏れ聞く大学生の就職難とはくらべものにならないにせよ、学生の就職花盛り、とはいかなくなりつつありました。それで主人のところにも、会社のよもやま話を聞こうと、学生さんたちが出入りしていました。なにしろ一番ひもじい年代の若い男の子たちですから、気持ち良いほどの食欲で、レシピになかなか、頭を悩ませたものです。
「今日は6匹来るぞ」のご託宣(笑)を受け、大きなお腹をかかえて(上の子が生まれる少し前でした)、黒門市場にむかいます。ソフトドリンクやアルコールなど飲料水は彼らが持ってきてくれます。その晩のメニューは・・・
☆フルコースサラダ(レタス、きゅうり、トマト、生ハム、ゆで卵、りんご、パン、ドレッシング)
☆マグロとアボカドのわさび醤油和え(大きめのボール一杯分)
☆グリルドチキン香草マスタードソース(6枚。食べやすいようにひとくちサイズに切る)
☆ローストタン(柔らかく煮た牛タンをローストビーフ風に。牛タン3本にソース、青野菜添え)
☆スペアリブのケチャップ、メイプルソース風味7キロ(なぜ7キロかというと、その日の肉売り場にそれだけしかなかった(^_^;))
☆米10キロぶん炊いたご飯
☆食後に、奮発した大玉のスイカ2コ
・・・これがすべて、お皿に一片も残さず、きれいさっぱりなくなりました。
・・・なんというか、私も体力ありましたね。若いってすばらしいです(@_@;)。
・・・なぜごていねいに当時のメニューを記憶しているかというと、つまりそれだけインパクトが強かったのでしょう(^_^メ)。・・・その後おおぜいのお客さんを迎えましたが、あれほどに豪快な食べっぷりは経験しておりません(^^)。・・・料理が余ったら、あたためなおして毎日食べよう、おかずの心配がなくてラッキー(^^♪、なんてもくろんでいたのですが・・・、浅はかだったなー(^_^;)。
・・・とはいえ、「美味しい」「ごちそうさまでした」満面の笑顔で言ってもらえれば全て報われ、ばんばんざいです(^^)。やっぱり腕によりをかけてつくった献立を、お皿がきれいになるまで「美味い、旨い」と平らげてくれるとうれしくて、「またごちそうしてあげましょう(^^♪」という気になりますね(^^)。・・・あまり関心がないような感じで、どの皿も上品にほんのひとさじつまんだだけでそっくり残されたりしたら、アタマにきて塩を撒きたくなることでしょう(T_T)。
・・・時が経つのは本当に早いです。みんないいおじさんになり(^^)、それぞれの職場で出世なさってるかなー(^^)。
「あの頃」は能天気でした(はずかしい(^_^;)・・・)。
お産があんなに苦しいとは思っても見ませんでした(^^)。
赤ちゃんが生まれると、夜眠れなくなるということも知りませんでした。
・・・まさか、高齢の祖父母を私が介護して最期を看取ることになる、なんて想像もつきませんでした(^_^;)。
子どもをさずかったことで、自分自身より大切な、かけがえのない存在があることを知りました(^^)。
「親」(自分の親も義両親も)のありがたみ、大切さも痛感しました。
「結婚」すると自分と同等に、配偶者のいろんなことも思いやらなければならない、こともうすうすわかってきました(^^)(つまり、自分のためだけには生きられなくなるということ、まだまだ勉強中ですが)。少しは成長したかな?とも思うのですが。
・・・それでもときどき、能天気で無思慮無分別ながら、それなりに一生懸命だった「あの頃」がなつかしくなります(^^)。
一周忌
祖父が亡くなって、早いものでもう1年がたちます。なんだかあっというまの1年でした。
齢90才をすぎた祖父母を田舎からひきとり介護していたのぺ6年間も・・・、終わってみれば非常に早かったです。
過ぎた歳月はとりもどせませんが、ずいぶん勉強させてもらいました。
・・・思えば、突然祖父母を世話することになったとき、私はちょうど30代に入ったばかり(笑)、子どもたちは幼稚園の年長と年少クラスになろうとしていました。下の子が3才になり、幼稚園入園して、これからは自分の時間が持てる、本も読めるし将来にむけて勉強もできる、趣味のマンガもたくさんかける・・・、と希望をふくらませていた矢先でしたから、祖父母にはもうしわけないのですが目の前が真っ暗になりました。私の実母は早くに亡くなっており、しかも祖母とは不仲(いわゆる「嫁と姑の関係」プラスアルファですね)で、母の存命中からずっと疎遠でありました。
高齢のため夫婦ふたりの生活が難しくなったので、祖父母の地元の互助会がヘルパーさんを派遣して介助してくださるはずだったのですが、たちまちネをあげられ、「もう面倒みれないので血縁でひきとってください」ということになりました(ちなみにひきうけてくださったのが3月、見放されたのが5月です)。年明けの1月には父が心不全で倒れて入院したりしたこともあり(幸い軽くてすみました)なんとも気ぜわしい年でした。
・・・市の福祉課に行き近所の病院にも相談し、とにかく介護サービスを使えるだけ利用するよう努めました。「(90才代のおじいさんとおばあさんを)あなたひとりで全部面倒みんならんのですか!?」と病院の窓口の介護福祉士さんが驚かれたので、あらためて「そんなに大変なのかな・・・」と思ったり、しました。
デイ・ケアや入浴、訪問看護・・・享受したサービスには今でも大感謝しております。
・・・祖父は仏さまのようにおだやかないい人でしたが、祖母は性格にかなり問題があり、難しくてやりづらい人で(まあ双方に欠点がありますが、そのために母との関係も悪く、田舎の地元の縁者・知人にも多少確執がありました)、亡くなるまで悩まされました。気丈だった亡き母が生前、義父母といっさい関わりをもとうとしなかったのは賢明だったと痛感しました。けれども。
・・・祖母に先立たれたとき、祖父の悲嘆は相当なものでした。
祖母の枕元に端座して一晩じゅう泣き明かし、葬儀の間ずっと棺にとりすがって「わしより先に去(いぬ)るか」「天国いけよ、天国にいけよ」と泣きながら声をかけていた祖父。老衰と呆け※でほとんどなにもわからなくなっているから、永久の別離の苦痛も感じなくてすむんじゃないかというこちらの予測が見事にはずれた、感動的な夫婦愛の姿がありました。
「・・・あんな良い人はいなかった」と死後1年ほどは嘆き暮らしていた祖父。・・・実際にはそうおっしゃっている祖父本人のほうが、まさしく「めったにいないぐらい良い人」なのですが・・・(祖母は周囲を困らせるトラブルメーカーだったし、昔から浪費家で、倹約家の祖父の預金ごっそり使って二束三文の利用不可能な土地を買いあさったりしてた(原野商法被害?)、もちろん祖父にないしょ)なんだかある種の「真理」をみせてもらった気がしました。
・・・でも、老衰はまぎれもなく、ゆるやかに身体機能は衰退してゆきました。
「風邪」と「転倒」は高齢者にとって命取りなほどの大事といいますが、実際そうですね。
・・・軽い疾患を繰り返し、祖父はそれまで出来たことが出来なくなってゆきました。
発熱して寝込むたび、「もうこれで最期かもしれない」と思って一生懸命看護に励む、思惑はあっさりはぐらかされ(笑)、再び現世に戻ってくる祖父、でもそのたび、・・・トイレにいけない、・・・歩けない、・・・自分でご飯が食べられない、・・・幻聴・幻覚がおびただしくなる、・・・固形物が食べられない、・・・自力で排泄できない、・・・と状態が悪くなってゆきます。「生」と同様「死」も難しいんだなと実感しました。
最期は食事介助(調理にミキサーとプロセッサーが大活躍)からおむつ交換、排泄させる処置や後始末まで私がこなせるようになりました。・・・祖父母がきた当初は、汚れた衣類の洗濯もつらかったのですから、時の流れはあなどれません。
「夜間譫妄」もありました。真夜中に大声で朗々と大演説?をはじめ、ほとんど身動きできない人が介護ベッドから脱出して部屋のかなたまで這い出してゆく、妄想パワー?のすごさに圧倒されました。祖父が疲れるまで喋ってもらいうんうんと聞き流し、頃合をみはからって(というよりこっちが睡魔に負けそうになったところで)ベッドに戻してあげるのですが、日中ぐったりしている祖父を見るにつけ、昨夜あったことは本当なの?と狐につままれたような思いでした。
老衰で要介護度もあがり、介護5になっていました。毎晩起こった夜間譫妄も二晩おきになり、数日おきになり・・・、言葉が悪いですが「半死半生」状態になってくると、家庭介護が無理になったらどうしよう・・・、と悩みました。施設入所も考えたのですが、近所に良い施設がない事もあり(公的な養老ホームは飽和状態で入居2,3年待ち状態)、本当に「植物人間」になってしまえば病院等でお世話になるより仕方がないですが、呆けていても喜怒哀楽の「感情」は残っているわけですから、できれば最後まで「うち」でみてあげたい・・・、でも不可能になった場合は・・・、等々の葛藤がありました。特に本来子ども好きな祖父にとって、子どもたちのいる我が家の環境はとても良く、延命効果があったのではないかと、手前味噌ながら思っています(うちの子かよその子か、解からなくなっていましたが)。
「別れ」は突然やってきました。
病院のデイ・ケアの日の朝、どことなく具合が悪くて息苦しそうにしているので、できれば診察してほしい、と迎えにきた介護ワーカーさんにお願いしました。折り返し病院から連絡があり、ただちに入院、とのこと。かけつけると酸素吸入装置につながれていました。
身内の人たちにすぐ集まってもらってください、と連絡され応じたものの、俄かにぴんときませんでした。以前にもいよいよ最期が近いと宣告されながら何度かもちなおしておりましたので・・・、「今晩が峠」と告げられ、自宅と病院を何回か往復し、かけつけた叔母夫婦と学校から帰った子どもに夕食の支度をして、出張中だった主人に連絡をとり、子どもと叔母夫婦を寝ませて病院に戻り、父と私ふたりで集中治療室に詰めておりました。活発に動いていた祖父の手が静かになり、呼吸が少しずつゆるやかになり・・・、まだ半信半疑でしたが、やがて当直の先生が検分して、死亡時刻を報告されました。・・・午前中に入院して、亡くなったのは翌日未明にあたる深夜の永訣でした。満103才の誕生日の目前でありました。
正直いって「介護」はきれいごとではすみません。
身近に相談できる人のないつらさ(叔母も義母も、介護体験なし)、
「介護」の問題がなければ気にもとめなかった身内との関係悪化、
家庭崩壊の危機・・・、というのもおおげさでなく実感しました。
もっと時間が経てば、今はつらくて書けないことも、書けるようになるかもしれないし、書けないまま終わるかもしれません。
とりあえず、3周忌もすぐにやってきそうです。
・・・結果としてそうなったまでですが、祖父は苦しむこともなく、うらやましいほどに安らかな最期を迎えました。最後の最後まで我が家で世話できたことも、本当に僥倖でした。
私は信仰など持たない人間ですが、こればかりは「天のご加護」のおかげ、としかいいようがありません。
享年祖父102才、祖母94才。母50才。
生きている者が、死者から学ぶことはたくさんあります。
なるべく悔いない生き方をしたい・・・、生あるうちにできること、したいことを達成したい・・・、できればお世話になった人、仲良くしてくれた人全員に感謝して死ねるような生き方をしたい・・・、たいそう未熟な私としては、まだまだ日々精進です。
※「痴呆」という表現は人をおとしめるような雰囲気があるから・・・というので廃止になり、「認知症」その他新たな代替語が模索されているそうですね。しかし表現を変えようと変えまいと、当事者にとって痴呆は痴呆、呆けは呆けです。物事の本質をわかりづらくさせる「言葉狩り」に反対します(ーー;)。